遠軽町の鍼灸院は耳鳴りや座骨神経痛などをYNSA®で高橋治療院が改善

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プロフィール

はりきゅう高橋治療院の高橋等です。当院ホームページをご覧くださりありがとうございます。

北海道の田舎町で、どんな人間が一人で鍼灸院をやっているのか?
ここでは私のプロフィールを紹介していますので、少しでも気になったのなら是非読んでやって下さいm(__)m

猫と豚といっしょに育った?子供時代

生れも育ちも北海道の遠軽町です。それほど裕福ではなかったので、父の本業のほかに兼業で養豚をやっていました。臭いし、汚いし、手伝わされるのが嫌でしたね。友達にも知られたくなかったです。でも、今思えば私を育てる為、必死にやっていたんだと思います。そんなある日、白い猫が我が家の家族の一員になりました。それまでは猫は怖いイメージでしたが、すぐに猫好きになりました。豚さんに比べたら何倍も可愛かったですね。
そんな貧しい環境で育った私は、ろくに勉強もせず外で遊んだり、テレビばっかり見ていました。友達と遊んでいても17時になるとお風呂を沸かす為に、一人で帰らなければならなかったのは、今でも悔しいです。お金が無いので野球チームとかにも入れず、お絵かきしたり、段ボールで何か作ったり、何台かの中古自転車を組み合わせて改造したりして過ごした記憶があります

中学・高校はクラブ活動に熱中!アルバイトと減量...

中学時代はバスケットボール、高校生の時はアマチュアレスリングをやりました。バスケットボールを続けなかったのは、身長が伸びなかったからです。レスリングで激しい減量をしなければ、もう少し伸びたかも知れないけれど、当時は全国大会に出場するのが目標でした。当時の遠軽高校はレスリング部が強くて、毎年、先輩たちが全国大会にまで出場していました。
もう一つ一生懸命だったのが、お寿司屋さんでのアルバイトです。自給390?くらいだったかな?当時でも最低賃金を下回っていたと思います。今だとアウトですね(笑)。お小遣い稼げるし、職人さん達と触れ合って、大人の仲間入りできていると勘違いしてましたが、何かそれが楽しかったです。
幸せだったが一つ問題が。お寿司屋さんの美味しそうな、まかないご飯が出るのにレスリングの減量がたびたび重なる。地獄でしたね~、目の前で同級生達が美味しそうにまかない食べてるし。フラフラしながらバイトしてました。
こんなことを続けているから、レスリングにも影響し北海道3位。2位までなら全国大会行けたのに。当然ながら大学進学が危うく…。

1年間の浪人生活から大学生活へ

現役で地元の北見工業大学を受験しましたが見事に落ちました。当たり前ですよね。
高橋家のルールでは国公立大学なら何とか、私立は絶対ダメでした。よって予備校も許してくれませんでした。当時でも珍しくなった宅浪(自宅で浪人)をする事に。同じく宅浪するY君と一緒に1年間何とか頑張り抜き、なんとか職業訓練大学校 木材加工科に合格することが出来ました。Y君には今でも感謝しております。

大学生活は本当に楽しかったですね。職業訓練大学校は神奈川県相模原市にあって、今でこそ政令都市になりましたが、当時は関東では田舎の部類に入っていました。それでも、遠軽町から出て行った若者にとっては、何もかもが新鮮で一人暮らしで解放感もあり、青春そのものでした。仕送りも少なかったので、9~18時が学校で21時~1時までドーナツ屋さんでアルバイトって感じでした。この頃はバブル時代の真っただ中、時給は今より良かったので助かりました。今考えても、良く体力もったなと思うし、良く卒業も出来たと思います。そんな忙しい中でも、大学の先輩後輩やバイト仲間との交流があったことは、自分の成長にとても良い影響を受けたし、大きな財産となりました。

14年間のサラリーマン生活と会社の倒産

大学の成績は良くなかったのですが、当時はバブル時代の最後だったので、大手のオフィス家具メーカーに就職することが出来ました。ここではデザイナーとして、オフィスの配置や空間を設計する仕事につきました。物作りが好きだったので本当にラッキーでしたが、大変な仕事でもありました。夜までの残業あり、休日出勤も当り前、時には徹夜もありました。現在でならブラック企業と言われてもおかしくないくらい仕事しましたね。
その9年後、北海道に戻る事になり地元の建設会社に就職することになりましたが、のちに倒産することになります。人生、一生懸命やっても報われない事もあると、この時、痛感させられました。

この会社では一般社員から、なぜか工場長、営業課長、北見支店長を歴任しましたが、この頃から会社の業績が悪化し課長に降格になりました。この時には地元業界では「潰れる」との噂が飛び交い、資材仕入も難しくなり、とうとう倒産へ追い込まれます。結構つらい時期でしたね。建物の客さんは待っているのに、工事は止まるし、会社役員も動いてくれないし。
社員が辞めていく中、工事が終わって引き渡すまで自分は辞めない!と決めていました。支店長の時から契約した工事は、最後まで責任もって終わらせて辞めようと決めていましたから。
このつらい時ぐらいから、現在の仕事を意識し始めたかも知れません。

自動車組立て工場の現場で働くことに


サラリーマン時代の様に気を使う仕事が嫌になり、愛知県のトヨタ車体という工場で気楽に働きたいと思いました。工場の現場と言っても、人間関係いろいろありましたね。しかも37歳の体力には、かなりきつかったです。2カ月で9kg減りました。
この頃は鍼灸の学校に行こうと気持ちは固まってきたので、週末には回転寿司のバイトも掛け持ちしました。この店長は一週間でギブアップすると思ってたらしいですが、1年以上続ける事が出来ました。
私が鍼灸師になろうと決めたのは、父が大腸癌だったのが理由です。父は十数年にも渡って大腸癌から肝臓に転移して入退院を繰り返していました。そんな父の為に何か出来ないだろうか?少しでも楽な生活ができないか?入院の回数が減らないか?と思いこの世界に入る決意をしました。
このあと名古屋市に移り、いよいよ鍼灸の専門学校に通う事になります。

トライデントスポーツ医療専門学校の3年間

鍼灸師になるためには専門学校や大学で、3年以上学んで卒業しなければなりません。その後、国家資格に合格して初めて鍼灸師となります。よく専門学校に行けば資格が貰えると思われがちですが、そう甘くはありませんでした。テストで成績が悪いと落第するし、1つの科目で4回以上休んでも落第します。
私はトライデントスポーツ医療専門学校の夜間部に入学し、昼間の仕事を終えてから授業に参加しました。昼間の仕事と週末のアルバイトで授業料を稼いで、眠い目をこすりながら授業を受ける。そんな大変な毎日でしたが、決して授業を休みたいとは思わなかったし、学校で配られたコピーやプリントも勿体なくて捨てられませんでした。大学は親が授業料とか生活費を出してくれていて、甘えがあったと思います。いざ自分のお金で奨学金を利用して学校行きだすと、時間も教材も無駄には出来ないと思い必死でした。

この頃の生活スタイルを振り返ると、7:30~自転車で30分ほどかけて職場に行き働いて、17:30には帰社して40~50分ほど自転車で専門学校まで行く。ギリギリで18:30~授業開始、21:30に終わると帰宅してから居酒屋でバイト、もしくは復習。土日は朝から回転すし屋でアルバイト、土曜日は夕方から授業、日曜は閉店まで働きました。さすがにテスト前はアルバイトを休ませて貰いましたが、良く卒業も出来たし、国家試験にも合格したと思います。思い返すと、いつ勉強してたんだろうと不思議です(笑)。
この3年間は大変でしたが、あっとゆう間の充実した毎日で楽しかったです。高校卒業したばかりの若者もいれば、私より年上の先輩もいたりと、様々な世代がいて刺激を受けました。

名古屋の出張専門の鍼灸院に就職

必死で国家資格の勉強をしてましたが、就職活動は殆ど出来ませんでした。42歳のおじさんを雇ってくれる所はあるのだろうか?いろいろ面接しましたら、ありました。同じ専門学校を卒業した先輩の出張専門の鍼灸院でした。出張の施術をするところは前々から興味がありました。本当に困っている人や、通いたくても通えない人達の施術をしたかったからです。
この院では施術の技術から、人との接し方や鍼灸治療の考え方、学ぶ事の大切さなど様々な事を教えて頂きました。また高名な先生の技術セミナーにも、たくさん参加させて頂きました。短期間で多くの事を学ばせて頂き本当に感謝しております。
現在、一緒になった妻は、この頃に出会いました。

父からの突然の呼び戻し...

無事に卒業し、国家試験にも合格し、そして望んでいた職場にも就職が出来た。思い通りには行かない事も多々ありましたが、少しずつ技術をのばしていました。もっと学ばなければ、もっと技術を磨かなければ、そんなある日、母から電話が入ります。
母「父さん、早く帰って来い!って言ってる。病院から、息子にも一緒に来てって言われてる」
私「なになに?父さんの身体、大分ひどいの?父さんに代わって!」
母に何度も頼みましたが、父は電話口に出てくれませんでした。「いいから、帰って来い!」の一点張りだったみたいです(^_^;)。本人も病気の事を受け入れられなかったのではないかと思います。

父の病はステージ4の末期で、医師にも告知されたようでした。会った時にはお腹が引っ込んで、肋骨が折れるほど肝臓が肥大していました。
この2か月後、父はこの世を去ることになります。

いよいよ開院へ

父がこの世を去って落ち着いた頃、はりきゅう高橋治療院を開業しました。私が名古屋から帰ってくるのを楽しみにしていたようです。父が亡くなる前、開業するための治療室を手作りで用意してくれていました。本当に父には感謝ですね。
2ヵ月ほど、父との最後の時間を過ごすことが出来ましたが、正直、父の力になる事は殆ど叶いませんでした。朝と夕方に鍼灸治療をすると「少し楽になった、またやって欲しい」と言ってくれたのが嬉しかったです。
父の力になりたいと思い、鍼灸師になる事を決意しましたが間に合いませんでした。今の自分だったら、あれも出来る、これもやる、といった事があるので少し心残りです。
父に鍼灸治療の良さを発揮し切れなった分、地域の皆さんには東洋医学、鍼灸治療のサービスを提供して行きたいです。何か良い方法はないかな?と悩んでいるあなた。何かのきっかけやヒントに繋がるかもしれませんので、是非、一度ご相談ください。

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